武田尚子(武蔵大学)2012 年8 月30 日、
カンボジアのシェムリアップ市
にあるボスコ・ベーカーリースクール(BBS)を初め

て訪れた。パン作りは夜10 時から始まる。市内のホ
テルに泊まっていたので、夜9 時半すぎに、ピン・ピ
ロンさんが迎えに来てくださる。市内を通りすぎてゆ
くと、ナイト・マーケットにはまだ煌々と明かりがつ
き、大勢の人出で、にぎわっている。20 分ほど車で走
って、BBS に着いた。暗くて建物の外観は見えないの
で、夜が明けてから写真に撮ることにする。

製造スタッフの熟練化
製造スタッフのワッタ・ナさんと、ワン・リーさん
が、すでにてきぱきと仕事を始めている。早くもシナ
モン・ロールの成型にとりかかっていた。製造用キッ
チンが広いことにまず驚く。大型の冷蔵庫、オーブン
も並んでいる。動線が良く、使いやすそうなキッチン
だ。

ワッタ・ナさんがあっという間にシナモン・ロール
の成型を終え、次のツナ・マヨネーズの成型に取りか
かっている。ワン・リーさんは、今日の製造予定を記
したホワイト・ボードを見ながら、計量の作業をして
いる。2 人が異なる作業をこなしながら、てきぱきと
次々と作業をこなしていく様子は、もうどこから見て
も本格的な職人だ。何年か前は、パン作りをしたこと
もなかったという若者がこのように生き生きと働いて
いる様子はとても印象的だ。

働く環境が
整っていれば、プロフェッショナルとし
て生きていくことができる方たちである
ことがわかる。「働く環境」が適切に整っ
ていることの重要さを改めて痛感した。
現在、ワッタ・ナさんは27 歳、ワン・
リーさんは24 歳である。ワッタ・ナさん
は昨年日本にパン製造の研修に来て、山
本敬三シェフのもとで製造技術とマネー
ジメント技術を一層向上させた。とはい
え、日本とは環境の異なるカンボジアで

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パン作りに取り組むには、わからないこともあることだ
ろうに、がんばってやっているんだなと、しみじみ思う。
ワン・リーさんはBBS でパン作りをはじめて2 年に
なるという。ワッタ・ナさんに劣らず、次々と的確に仕
事をこなしていく様子は、とても2 年の経験とは思えな
いほどだ。このお2 人はとても手先が器用な方たちであ
ることがわかる。ワン・リーさんはBBS で働き始めて
から、夜10 時の始業であるため、夜に友達と遊ぶこと
もなくなり、生活のリズムが整ったそうだ。お母さんも
とても喜んでいらっしゃるという。「パン」という具体
的で興味が持てる目標が見つかって、それに集中するこ
とによって、ご本人の生活も、家族の生活も好転してい
ったわけで、このような有為な若者がもっともっと希望
を持てるようになるといいなと思う。
バラエティに富んだメニュー
BBS で、いま作っているパンは27 種類に及ぶ。
ホテルブレッド(スペシャル・リッチ・テイス
ト)、ソフトトーストブレッド、トーストブレッ
ド、ウォールナッツ、レーズン、シナモンロー
ル、シュガーブレッド、チョコレートビスケッ
トブレッド、ココナッツクリーム、あんパン、
ソフトミルキーバゲット、バーガー用パン、バ
ゲット、カレー、チーズバゲット、ベーコンバゲ
ット、ベーコンボード、ハムロール、ツナマヨネ
ーズ、ソーセージピザ、ブッテロール、チョコレ
ートバナナ、セサミソフトバゲット、フルーツバ
ゲット、カスタードクリーム、スウィートトース
ト、レーズントーストである。
日によって、発注先、発注個数が違うので、ス
タッフは製造個数が記されたホワイト・ボードを
確認しながら、慎重に計量作業を行う。使用して
いる小麦はオーストラリア産である。卵は地元の
ものを業者が届けてくれる。以前は、ピロンさん
が買い物に行く手間がかかったが、卵などを配達
してくれるようになって、この点が少し改善され
た。

ピロンさんは、日中は営業、会計、原材料の発
注等々のさまざまなお仕事をかかえているので、製造面については、夜10 時の始業時と、
早朝の納品前の検品に立ち会い、夜間の製造については製造スタッフにまかせて、夜中は
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眠る。今日は私が行ったために、就寝時間が遅くなってしまった。ごめんなさい。
ピロンさんの営業活動
第一陣のパンがオーブンに入るころ、別室の
キッチンで夜のコーヒーを飲みながら、ピロン
さんのお話をうかがう。8 月末現在、BBS がパ
ンを納入している先は10 カ所である。レスト
ランが5 カ所、スーパーマーケットが5 カ所で
ある。長距離バス便への納入は昨年でやめて現
在はやっていない。


私が行った8 月は雨期に当たる。雨期(4 ~ 9
月)は天候が不順になるため、観光客が減る。
観光客の減少は、レストランの客の減少に直結する。レストランからのパンの注文数も減
る。シェムリアップはアンコールワット観光の拠点都市で、観光業がメインの産業である。
雨期の観光客数の減少は、観光業に関わる全ての人の収入減になり、ホテルからトウクトウ
クの運転手に至るまで痛手を与える。物は買い控えられ、スーパーマーケットの売上げも
落ちる。スーパーマーケットからのパンの注文数が減る。このように雨期は苦戦の時期で
ある。まるで雨期不況ともいうべき状況が経済面で発生するのである。雨期はシェムリア
ップ経済の縮小期であり、BBS のパンの売上げも落ちる。

このような環境で、販売ルートを広げるのは並大抵の苦労ではない。ピロンさんの営業
活動も必死である。レストランやスーパーマーケットに売り込みの営業に回る。オーナー
に試食してもらい、注文主になってもらう。シェムリアップにはホテルが相当数あるが、
ホテルにはコックがいるので、パンの注文主になることはないそうだ。以前に製造スタッ
フだった2 名は辞めて、ホテルのコックになった。

ピロンさんが担当する管理業務は幅広く、スタッフの人材育成も重要な一部門である。
製造スタッフは一人一人気質が違うので、特徴をのみこみながら、相性が良くなるように
配慮し、良い成果につながるように導いていく。「心が楽しいと、出来上がるパンもおい
しい」という
ピロンさんの
言葉が心にし
みた。ピロン
さんに「おや
すみなさい」
を言って、私
はキッチンに
残る。

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販売の準備
夜中の1 時前には、次々とパンが焼き上がる。パンのお
いしい香りが漂いはじめる。1 時になると、さらにもう一人
のスタッフが出勤してきた。ドウ・ドウさんである。熱がと
れたパンをビニル袋につめて、ラベルを貼る。食パンをカ
ットするのもドウ・ドウさんの仕事である。ドウ・ドウさんは
早朝のパン配達を担当しているので、伝票と照合し、配達
の準備を整える。パン作りのメイン業務は行わないが、カ
ット・袋詰めにはたずさわる。

3 時半になると成型作業はほぼ終了した。その頃、洗いも
の・掃除担当のソックンさんが出勤してきた。洗い物がお
おかた終わったあとは、パンの耳のカット作業に取り
かかる。4 時半には、ほぼ全てのパンが焼き上がった。
ピロンさんがキッチンに降りてきて、出来上がったパ
ンのぐあいをみながら、製造スタッフにいろいろな指
示を与えている。

6 時頃には配達の準備が整った。ドウ・ドウさんが白い
シャツに着替えて、配達に出かけるので、きょうは私
もトウクトウクに乗って、ドウ・ドウさんの配達車の後ろ
に付いていく。
朝のパン配達
緑の配達車がとてもかわいい。早朝の村から町
へと風景が移り変わり、カンボジアが初めての私
には物珍しい。BBS の隣家も牛を飼っていて、郊
外地域はまだ純粋の農村であることに驚く。BBS
から15 分ほど走って、市内に入った。
ドウ・ドウさんがまず最初に配達したのは、レストラン兼ゲストハウスである。フロント
の係がパンを受け取ると、伝票にサインしながら、
すぐ袋を開けて、トーストを一枚食べ出した。焼
きたてがおいしいことを知っているのだろう。
次にドウ

・ドウさん
が回ったの
はスーパー
マーケット
である。BBS の商品棚にドウ・ドウさんが手早く焼
きたてパンを並べていく。目立つところに商品棚
を確保することが重要であることが理解できた。

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3 番目に行ったのは「レッドピアノ」とい
うレストランである。キッチンに入っていっ
て、注文のパンを納める。キッチン担当者は
出勤していたが、会計担当者はまだ来ていな
い。売上げ金の回収のため、ここは後でもう
一度集金に来ることになった。
4 番目は「ヌードル」という名のおしゃれ
な概観のレストランである。ここは鍵をもっ
たスタッフがまだ出勤していなくて、このレ
ストランのキッチン担当者も店の前で待って
いる。ドウ・ドウさんを交えた4 ~ 5 人が談笑し
ながら、鍵担当者がやって来るのを待つ。15 ほ
ども待っただろうか。扉が開いて、2 階にあるキ
ッチンにバーガー用パンを納め、キッチン担当
者に伝票にサインしてもらう。1 階の会計に降り
て、ここで売上げ金を回収する。ドウ・ドウさ
んがそれぞれのお店で顔なじみのスタッフと言
葉を交わしながら、にこやかに配達していく様
子が印象的だ。それぞれのお店では、会計担当
者が来ていなかったり、待ったりと、手間が
かかることが多かったが、臨機応変にてきぱ
きと配達をこなしていく。
この日は、4 ~ 5 軒のスーパーマーケットも
回った。付いていった私は、スパーマーケッ
トにもいろいろあることを知って、とても勉
強になった。日本のコンビニのようなお店も
あれば、インターネットカフェのコーナーを
備えて、通学途上の学生が自分のパソコン画
面を開いて、パンとコーヒーをパクついている店もあった。店の外を托鉢途中の少年僧の2
人組が通り過ぎてゆく。シェムリアップのにぎやかな朝の風景のなか、ドウ・ドウさんは10
軒に配達し、配達が終わったのは8 時半頃だった。

観光産業とシェムリアップ
シェムリアップは、アンコール遺跡群見物の拠点都市として、観光産業が急拡大した都
市である。BBS のパンの売上げも観光客数の増減に左右されるように、観光産業に特化
した都市構造になっている。日本の都市の場合もそうであるが、観光産業都市は、安価な
サービス労働を必要とするため(宿泊施設の清掃・クリーニング、インフォーマルセクタ
ーの労働など)、低賃金労働で働く労働者が集積し、閑散期にはレイオフされて失業が多

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くなり、貧困層も集積する。格差の大きい地域
社会を形成するのが観光都市の特徴である。
シェムリアップの場合も、都市周辺部へ行く
と、すぐに農村風景が広がる。これは村落部に
第一次産業就業者が多く存在し、この人々が第
三次産業の低賃金労働へと誘導されやすい構造
であることを意味する。都市郊外の村落部は、
道路舗装、電力供給、上下水道の整備など都市
基盤整備が遅れ、都市中心部との格差が目立ち
やすい。シェムリアップの場合も、都市中心部と、都市基盤整備が遅れた郊外地域との間
で格差が拡大し、郊外地域に社会問題が集積している状況と思われる。BBS が立地して
いるポー村も、このような郊外部に該当する。
ピロンさんは、ポー村の子どもたちの現状をみて、日曜日午前中に子どもたちを集めた
日曜学校を始めた。この子どもたちの親は、シェムリアップ中心部の宿泊施設で働く低賃
金労働者、または建設業等の厳しい肉体労働に従事しているという。子どもたちの教育ま
で手が回らない。公的教育の教員も低賃金で生活に厳しく、子どもたちをとりまく環境の
向上に目を配る余裕がない。

「途上国における観光産業と都市」とい
うマクロなパースペクティブでみると、BBS
は、このような格差拡大、貧困集積のリス
クが大きい都市周辺部に立地し、格差の劣
位側に置かれがちな地域の若年層に雇用機
会を提供し、生活手段の技術訓練を実施し
ている実践的プログラムとして大きな意義
をもつことが理解できた
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